京都・東九条CANフォーラム設立総会及びシンポジウム報告

 2009年5月10日、故郷の家・京都の文化ホールにおいて京都・東九条CANフォーラムの設立総会およびシンポジウムが開催された。約80名が参加した。

 

<設立総会>


 東九条CANフォーラムは昨年2月9日の大雪の日に準備会を発足させ、それ以来1年4ヶ月の活動を経てきた。朴実代表より、「わたしが東九条に生まれ育って65年たちますが、近年まちは人口が減って廃れてきた印象をもちます。一方では東九条マダンやのぞみの園、故郷の家、エルファなどさまざまな活動団体があるのにもかかわらず連携が少ないんです。皆さんの協力を得て、再び活気のある賑わいのある、多文化共生のまちを取り戻したいと思います」とあいさつが述べた。
 公明党からは角替議員・大道議員、日本共産党からは井上議員、民主党からは山本議員から設立にあたって祝いの言葉が述べられた。また、門川大作京都市長からの電報も紹介された。
 改めて、代表の朴実さんより趣旨文、準備会事務局よりから会則・活動方針案が提案され、拍手をもって承認された。また、今年度の役員体制案が準備会事務局より提案され、同じく拍手をもって承認された。その後、障がい者の社会参加の位置づけなどについて、質疑応答がおこなわれ、今後新しいアイディア、新しい発想を加えていく必要性が確認された。

 

<記念シンポジウム:「多文化共生のまちづくり」>


 「多文化共生のまちづくり」をテーマに、東九条マダンの代表であり京都・東九条CANフォーラム代表として改めて承認された朴実さん、そしてコリアNGOセンター・代表理事の宋悟さん、立命館大学政策科学部准教授吉田友彦さんの3人をパネラーに記念シンポジウムが開催された。

 

◆自分たちがもっている能力を活かすことのできるまちづくりを

 

 朴実さんからは、東九条の歴史と課題、今後の可能性について話がなされた。東九条はかつて九条家の陶化御殿があり、その周辺はほとんど畑だった。1920年代に東山トンネルの複々線工事があり、1930年代に九条通が拡幅、一部高架道路、鴨川の堤防工事などに従事するために当時、植民地だった朝鮮半島から朝鮮人が労働力として東九条にも多く暮らすようになったことや、戦後、闇市、闇米などにおける活発な経済活動、不良住宅などの問題などの歴史が語られた。近年の問題として東九条の人口が少なくなり、空き地が多くなってしまったこと、焼肉屋が物品屋になり、大型の飲食店が閉店するなど、どんどんまちが廃れていることが語られた。その一方では新たなまちの動きも確認された。エルファによるデイサービスなどの取り組み、故郷の家の設立、東九条マダンが1日4000人動員していることなどが紹介された。住民・市民が知恵を出し合うことにより、日常的なまちの活気を取り戻せるのではないかと語った。
 これからの取り組みとして、東九条に全国から来る見学者たちをうけいれる公的な施設の必要性が言及された。東九条は世間にはトンクジョウとよばれ、被差別的にとらえられる。しかし、東九条には多様な人たちが暮らしており、さまざまな可能性をもった地域でもある。これをプラス思考として、東九条の住民だけでなく、京都全体の問題として学者の方やお金を出せる人はお金を、技術をもっている人は技術を、様々な人たちが知恵をだしあって、行政の人にもはいってもらって、東九条に多文化共生コミュニティセンターを作り、いつでも誰でもきてもらって、自分たちがもっている能力を活かすことのできるまちづくりが宣言された。

 

◆地域における多文化共生の仕組みづくりの必要条件


 宋悟さんからは、コリアNGOセンターの取り組み、および大阪市生野区におけるコリアタウンの事例について報告がなされた。コリアNGOセンターにおける4つの取り組み、①公立学校における「民族学校・クラブ」の制度保障、②生野コリアタウン人権研修プログラム、③多文化共生社会の実現にむけた政策提言活動、④ワンコリアフェスティバルへの取り組みが紹介された。
 そして、多文化共生を考えるにあたって、誰による誰のための、何のための多文化共生なのか、"日本の大企業の労働力を確保するための多文化共生"なのか、"民族的マイノリティ当事者のための自由と安心と自信をもって暮らせるようにしようという多文化共生"なのか、人権尊重と歴史的文脈の視点をもった多文化共生の重要さが語られた。
 次に多文化共生のための必要条件として外国人・民族マイノリティの人権を保障する基本法といった「法制度」、民族差別など緊急的な課題と国際理解を広めるといった課題に対応していく「2つの現場」、そして地域社会の中の多様性を認めていくような「空気」が必要であること。多文化共生をめざすときに、全部のことを一気にはできないので、どの部分を京都・東九条CANが最初にどの部分から手をつけるのかが重要だとの指摘した。
 重要なポイントとして、仕組みづくりの中で、地域にあるいろんな強み、特徴を発見して編集、デザインしていく創造性が問われている。反差別、人権といった要求スタイルも重要だが、これに加えてさらに新しいもの、制度、雰囲気をつくっていく価値創造型のまちづくりも必要となってきていることが強調された。
 多文化共生のまちづくりにむけての仕組みづくりのための、「人権研修プログラム」や「生野区地域福祉アクションプラン」、「生野コリアタウン倶楽部」など具体的な取り組みも細やかに紹介された。

 

◆若者が住み続けることのできるまちを

 

 立命館大学の吉田友彦さんからは、東京・大久保と大阪・旧猪飼野からみる東九条地区の将来について提案がなされた。まず、新宿駅の北側にある大久保は現在韓流ブームで活気を呈しているが、どのような特徴があるのかについての調査結果が紹介された。職安通の商店振興組合に加盟している商店と韓国系商店の所有者や取得年度などを調べ、比較してみたところ、そうすると、韓国系商店は飲食業に特化している。そして、民間の分譲マンションを賃貸化して店ができて傾向があることがわかったとのことであった。この前いった店が次いったときにないなど、流動性は高いが常に多くの店が存在している。最初のある韓国食材のスーパーがキムチなどを売っていたが、このスーパーが起爆剤になって多くの店が広がっていったことが紹介された。
 次に、旧猪飼野地区の店舗の変容について紹介された。生野区御幸森商店街の店舗の商店主や形態がどう変化したのか、1996年時点と2006年時点を比較してみたところ、廃業が日本人に多いこと、借家商店ではなく持ち家商店が廃業したこと、廃業後はそのまま放置されているなど、つまり日本人が出ていってしまっている。コリアンと日本人とどう一緒ににやっていくのかは東九条でも求められているとの指摘がなされた。
 では、京都・東九条はどうか。1968年と2005年の人口ピラミッドとの比較から、数多くの人が流出した、特に1968年の時点で15歳から19歳までの人たちが特に減っているが改めて確認された。職業の状況や経済の状況もあるが、住み続けられるまちであったのかということが問われている。4ヶ町の場合、公営住宅の存在が大きく、民間住宅市場を排除していないか。もちろん、高齢者への支援も重要だが、若い人が住み続けられる町について考えていかないといけなんじゃないか、そして日本人も来て楽しいイベント・まちづくりも重要との指摘があった。吉田さんからの提案として、東九条の将来を考えるときに、東九条のまちづくりの歴史を学ぶ現場としての学校的な機能が重要だろう。地域としてのひろがりのなかで、まちづくりを学ぶスポットがたくさんあり、それを面的な広がりのなかでつないでいくことが提案された。場所にものがのこっていなかったとしても、その記憶だけで歩くだけでもいい。九条ねぎとかいろんな地域資源もある。外国人観光客、日本人も楽しめるものであてほしい。そして最初はイベント、人の交流でもいいですが、だんだん地域にすめる人が増えていく。マンションを建設して増やすんじゃなくて、地域のイメージをあげながら自然に人が増えていくという方向が提案された。

 

 発題後も活発な意見交換、提案がなされ、ときおり会場から拍手がおこるなど活気のあるシンポジウムとなった。